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松原まこと

文化元年長崎梅ヶ崎事情1 



あの出島が長崎湾に浮かぶ小さな「島」だった頃、また、その出島の東斜め対岸の梅ヶ崎(うめがさき=現在の梅香﨑)が湾内の「舟隠し」に適した小さな入江だった頃、長崎湾に一隻のロシア帆船が迷い込んだ。


文化元年(1804年)10月6日、徳川時代の陰暦で9月6日――奇しくも「くんち(9月7日・9日重陽の節句祭り)」の前日(地元[では「裏くんち」とも)とあって長崎町内が最も賑わう日の出来事である。“これは祭りどころではないぞ”と、多くの町民の眼が、湾内に悠然と浮かぶ巨大な西洋帆船に釘付けになり、そのためか人々は得体の知れない不安と好奇心でざわつき、その年の「くんち」は、出鼻をくじかれて、いつになく盛り上がりを欠いた。

帆船が「迷い込んだ」という表現は、ここでは正しくない。オランダ船・唐船以外の「異国船禁制の国」であることを承知の上で、長崎を目指したこのロシア軍艦「ナジェジダ号」には、一万五千海里の波頭を超えて、どうしてもこの国に手ずから送り届けたいものがあった。


届けられたのは「物」ではなく、名もない東北・石巻(いしのまき)の舟乗り4名の命であった。仙台藩領民の津太夫、儀兵衛、太十郎、そして左平。いずれも生まれは仙台・寒沢村室浜(さむさわ村むろのはま)、苗字はない。さて、伊達家仙台藩の舟乗りが、何ゆえロシア船で長崎へ?―――


仙台藩から幕府への年貢米二千五百俵を積み込んだ「若宮丸」(8000石積み、16人乗り、船頭平兵衛=へいべえ、乗組員上記4名含む15名)が母港石巻を出帆したのが寛政5(1793)年11月。房総沖を回って江戸湾に入ろうとした矢先、突然猛烈な時化(しけ)に遭遇するところから、話は始まる。


―――荒れ狂う風波に「せめて転覆・沈没だけは避けよう」と、1本しかない風動力源の帆柱を根元から切り落とし、16名全員髷(まげ)を落とし、ざんばら頭で合掌してしばし天を仰ぐ。自力走行不能となった若宮丸は、太平洋を北へ向かう強い海流(黒潮)に弄ばれて、実に半年間酷寒の海上を空しく彷徨い、遥かアリューシャン海域まで流され、遂に翌寛政6(1794)年5月ロシア領アリューシャン列島西端の小島「ナアツカ島」に漂着した。

艀(はしけ)を下して未知なる大地に上陸するその直前、あまりにも厳しい状況で壊血病を発症していた船頭平兵衛は、陸地の影を見るや深く安堵したかのように、静かに息を引き取った。アザラシやラッコの獣皮加工・積出し地ナアツカの島民は、津太夫ら15名に麦餅(パン)と巨大なアザラシ?のゆで卵を振る舞い、「歓迎」を表わした。諦めていた温かい食事に彼らは涙ぐんだ。


大自然の圧倒的な力に操られて、極北の大国ロシアに漂着した津太夫ら15名の命は、この先、時の統治者「帝政ロシア」当局に委ねることになる。寒冷期には、国内の港湾・河川の大半が凍り付く国ロシアにとって、海を隔てて接する“隣国”日本は、“仲良くしなければならない国”の一つであった。もとより厳しい鎖国政策を敷く当時の日本には、如何せん、近づくことすらできない。では、帝政ロシアが徳川政権に“とりつくシマ”が全くなかったかと云えば、実はそうではない。それまでたった一度だけそのチャンスはあった。

房総沖で難破した若宮丸が極北ロシアに漂着した、その10年前の天明3(1783)年、同じく黒潮に弄ばれてロシア・アリューシャン列島に漂着した難破船がある。紀州藩の年貢米を江戸へ運ぶ途上、駿河沖で破船した「神昌丸しんしょうまる」(船頭大黒屋光太夫=だいこくやこうだゆう以下17人乗り)だ。

外交途絶国家日本との交易の糸口を探っていた帝政ロシア当局としては、日本からのこの突然の”訪問者”を保護する。国費で彼らの宿舎、移動手段を手配し、オホーツク、イルクーツクを経て、彼らを帝国の都ペテルブルグ(後の「レニングラード」、現在の「サンクト・ペテルブルグ」)へと導く。


――帝都の王宮でその時の光太夫らが拝謁したのは何とあの女帝エカテリーナ2世。折しも長期化しつつあった[露土戦争](ろとせんそう=帝政ロシア対オスマントルコ帝国間の戦争)でトルコとの間に「キュチュク・カイナル条約」(ロシアによるクリミア併合の端緒となる=1774年)を締結させ、黒海沿岸に極北ロシアの長年の悲願でもあった不凍港(冬でも凍らない港)を初めて獲得し、晴れてイスタンブールより戻ったばかりの女帝は、日本からの漂流民返還を通商開始の好機と見て、参謀キリル・ラクスマンを長とする訪日使節団を結成。


シベリア大陸を今度は西から東へ横断、極東ウラジオストク港からその名も軍艦「エカテリーナ2世号」でオホーツク海を一跨ぎ、北海道の東端根室に光太夫ら漂流民6名を送り届ける。ラクスマンはすかさず、対露開港・通商開始を幕府に強く求める。

蝦夷・松前藩から遣わされた幕府出先役人は、しかし「国法により異国船出入り一切まかりならぬ」の一点張りで、埒が明かない。業を煮やしたラクスマンは、大胆にも江戸まで出向き、時の老中松平定信に直訴。執拗なる交渉の末、11代将軍徳川家斉署名入りの「信牌(しんぱい=入港手形)」を手にする。


―――値千金のこの信牌には、こう記されていた――「近い将来貴国に流れ着く我が漂流民を伴って“再び”来日することがあれば、その時は特例として“長崎”入港を許す」―――。そして、遭難船神菖丸の漂流民大黒屋光太夫がラクスマンと共に根室に帰還した、まさにその翌年、その後を追うかのように破船した若宮丸の津太夫ら15名が、ロシア領に命からがら流れ着く。―――と、ここまでの若宮丸の顛末は、既に前半で述べて来た通りである。ロシア当局に「再来日」の大義名分を作った彼らは、こうして帝政ロシアの賓客として馬橇(ばそり)を連ねて帝都ぺテルブルグへ向かう。


「15少年漂流記」ならぬ“中高年15人シベリア横断旅”の原動力は、馬橇隊を引く大量の馬たち。1組4頭立て馬橇を5組連らねる隊列は、オホーツクを出て、氷点下60度一面永久凍土の世界最寒冷地域ヤクーツクにさしかかる。逞しいシベリア馬20頭の走りに命を預けた彼らは、疾走中の馬たちの尻から時折り見舞われる強烈な屁の“洗礼”に耐えねばならなかった。黙々と走る馬たちの体毛を伝う汗が、時として瞬時に凍り付き、みるみる馬体が白い氷の塊となって、ドサッ、ドサッと半数以上が道々に斃(たお)れる。―――ヤクーツクに着くまでに失った馬は、中継地で新馬が補填され、帝都ペテルブルグへの“15中年シベリア道中”は粛々と続く・・・・・。


ところで、世界最寒冷地域ヤクーツクは、今日、世界最大のダイヤモンド産出地に躍り出ている。現ロシア連邦サハ共和国の首都ヤクーツクからレナ川を渡って西へ800キロ、国営企業アルロサALROSAの「ミールヌイ鉱山」他から産出するダイヤモンドは3,490万カラット。近年上位を独占していたアフリカ勢ボツワナ(2,057万Ct)、コンゴ(2,157万Ct)をぶっちぎっての首位(米地質調査所2012調べ)。

ダイヤモンドだけではない、永久凍土の下に眠っているのは、天然ガス田、石炭、そして金鉱脈。いずれも最近の鉱物探査で判ったことだそうだ。―――これだけのことが、そのとき判っていたなら、根室まで来たラクスマンを徳川の将軍も国賓並みにもてなしていたに違いない。 


<つづく>


(本稿は「長崎かぜだより第39編」として執筆されるも、以後「文化元年長崎梅ヶ崎事情」なるタイトルにて連作予定 2015年1月  ©松原まこと)

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