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松原まこと

文化元年長崎梅ヶ崎事情 6(英国縦断 その1-3)


―――レザノフと善六は、うやうやしくトリニティ・カレッジのゲストルームに案内されるや、ロンドン育ちで歯切れのいいベンサム博士のキングズ・イングリッシュ第一声に見舞われる――


「遠路ご無事で何より。海軍一の馬車とはいえ、いい加減尻も痛かろう。まあ、ここで一息入れてくれたまえ。取って置きの紅茶を差し上げよう。その前に、レザノフ殿、ちょっと私の部屋へ」


善六を待たせて教授室に導かれたレザノフは、懐から皇帝陛下より預かった親書をかしこみ謹んで博士に手渡す。予め意の通じている博士は、中身を瞬時に改めてから、

「レザノフ殿、“共和国”のことはロンドンの本庁に通してある。ご懸念なく長官に会われるといい」


密談を終えた両人がゲストルームに戻るや博士の大声――

「この若者が問題の青年か博士は親し気に善六をハグして「東洋人とは思えない良い身体しているな」

「そんな大層なものではありません。ベンサム先生。極東果ての果てから長旅の生活で、こんなに鍛えられました」

「おおそうか、ゼンロク君、いや、ステパノビッチ君。その流暢な英語はどこで教わったのかな?」

「ロシア正教会には伝統的なEnglish Bible Classがあり、テキストは国教会版聖書でしごかれました。ペテルブルグから海に出てからは、船上でレザノフ団長から英語特訓の日々ですが」

「そうそうレザノフ殿は、国策の露米会社で大の英語通(つう)でしたね」

「同社も貴国の後ろ盾あればこそ安泰です」

ここで一呼吸空いて、今度は善六が「先生、一つ質問していいですか?」

「おお、来るか」

「先生の最大多数最大幸福論、さきほど団長から聞きかじったばかりなのですが、グループごとに絶妙に入れ替わるアリたちにそれぞれグループ・リーダーはいるのでしょうか?」

「勿論いる。しかし外からはまったく判別できない。アリ同士でしか感知できない特殊聴覚で交信し合い、リーダーがグループを統率しながら、別のリーダーたちとも絶妙に連携している。群の中で突出する者はなく、落ちこぼれるアリもいない」

「働く振りをしてその実サボる時間帯は、本番のための貴重な息抜き時間なんですね?」

「察しがいい。そういうことだ。群に異変が襲った時のために、アリ社会は余力をこうして温存するんだ。すべてのアリにとって意味のないアリ仲間なんて、一匹たりともいない」

「アリの知性には驚きました。人類がいかに賢くなっても、このアリの知性に追い付けますか? ベンサム先生」

「追い付けるかどうか、さあ、紅茶をすすりながら考えるとしようか」


部屋の一角の小テーブルには食器類一式がセットされていた。博士がすかさず奥から熱そうなティー・ポットを手ずから携えて来て、


「主人自らサーブするのが、ここでは本当のもてなしだ」と前置きして、ポットから高々とカップにお茶を注ぎ込みながら「焼きたてスコーンもどうぞ。ご両人とも眼より口が欲しがってる。紅茶で喉を潤し、スコーンで小腹を満たす。うまいぞ」

「まさか博士のお手製ですか?」 レザノフが口にした瞬間「この味、この食感。絶品です」

「これは実は自己流でね」博士は自分のスコーンを左手で掴むと「フォーマル・イングリッシュ・ティーでは、食するティー・フードはまずミニ・サンドイッチ、その次スコーン、そしてフルーツ・ケーキ類のペイストリー。常にカップを持つ右手を汚さないために、これらフードはすべて左手で。しかも順番を遵守、一度進んだら戻れない。これが英国流、私は私流。紅茶のお供はおいしいスコーンだけ。シンプルそのものだ」

「口に入るものはルールや格式じゃない。味と香りが主役ですよ、博士」

「先に云われちゃったな。そうなんだ。このダージリンの茶葉だって、原産地インドでは、およそ様式や作法などとは無縁の、ごく素朴な日用飲料として万民に親しまれていた。たまたま居合わせたポルトガル商人によって16世紀後半ポルトガル王室でデビュー、この地でシュガー入り紅茶の習慣が定着するんだ。更に王室外交を通じて英国王室に持ち込まれた頃からだ、ティー・マナーがやたら格式ばったのは」


マナーは二の次、と断ずる博士の「紅茶」講釈に少しは安心したか、レザノフも善六も不作法ながら出されたスコーンに立て続けに手が出る。「こんなにうまい焼き菓子はロシアにはないな」とつぶやくレザノフの眼は、懸命に涙をこらえているようだった。それを周囲に悟られまいと話を転じる「博士、このスコーン、心なしかハーブのとてもいい香りがしますが、私の勘違いでしょうか?」

「よくぞその香りに気が付かれました。ハーブの中でもローズマリーは、決して我々を裏切らない。スコーン生地は最後に牛乳を加えてこね合わせるのだが、今回はこね合わせの直前にローズマリーの茎から葉っぱを指でしごき落とし、十分生地の中に行き渡った後、めん棒で引き伸ばして、180度のオーブンで25分ほど焼くんだ。ご両人の旅の疲れが、この香で少しでも取れればと、飛び入りでローズマリー風味を思い立った」

「そうとも知らずに、このスコーンの美味なこと。はじめサクサク、中しっとり、香じんわり。これはまるで博士のお心遣いそのものです」とレザノフ。思わず直立した善六も声を振り絞った――「ベンサム先生、私達のために最高のTEA BREAKでした。生涯忘れません」


部屋の中に安堵の息が満ちた。善六がレスト・ルームに出て行っている間、博士は真剣な面持ちでレザノフに語りかけた、


「レザノフ殿、ゼンロク君は未知の英語世界にも拘らず、洞察の鋭さは瞬間でわかった。また、見識の高さは天性のものだね。それでレザノフ殿、彼をこの私の助手に譲ってくれまいか?」


レザノフはその刹那、自分の英語力を疑った――「教授、いま何と云われました? 善六が何ですって? 善六を? ここに置いて行けと?」

「ごめん、ごめん、悪談だ」博士は照れ笑いしながら「つまり彼はどこに出しても申し分ないということだ。レザノフ殿」


そして博士は、手にしていた封筒をレザノフに示して、

「これを持ってロンドンのロイヤル・ネイビ―本庁の長官サミュエル・ピーデフ卿を訪ねられたい。3日後火曜日の午前中、長官が貴殿ご一行を国防省ゲストハウスでお待ちだ」


 歴代のロイヤル・ネイビー長官は、英国王の揺るぎない信認を得た連合王国海軍の長である。先代国王ジョージ3世から直々に任命されたピーデフ卿は、海軍とはまるで真逆の「ロンドン王立学会」会長職も兼任し、当学会で後輩格のベンサム博士にとって最良のチェスの師匠でもあった。


「レザノフ殿、ピーデフ長官はロシア語のジョークも通じるほどロシア語はご堪能だ。歴代長官の中でも特にスケールの大きいお方だから、今回は貴方も運が良かった。会われたらくれぐれもよろしく申し上げてくれたまえ」博士はすかさず善六に向かって「ステパノビッチ君、東洋から来た君と知り合えて楽しかった。君らは今から近くの大学付属の競技場に行って、ラグビー・フットボールという学生競技を観て行くといい。ちょうど今、オックス・ブリッジ(オックスフォード大vsケンブリッジ大)のテスト・マッチが始まったところだ。それは一見“集団格闘競技”のようだが、実は大変頭脳的な楕円球球技だ。スタジアムは宿舎の真ん前だから、ぜひこの国の若者の底力見届けてくれたまえ」

「喜んで、しかと見届けます。ベンサム先生、ご配慮いただき、本当に有難うございました」と善六。レザノフも改まって「この地上で再びお会いできるとしたら、ベンサム教授、それまでどうぞお健やかに」と深く頭を下げた。


<つづく> ©松原まこと

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